先程の古書は格花のみの内容でしてが追加で投げ入、盛花の教科書が四巻出されました。
想像するに盛花の人気が高まっていた時代に盛花抜きの「いけばな」通信教育はありえないという庶民の意見があったのだと思われます。追加で盛花のみの教科書がこうして出されました。
ただしまだこの時代は小原流はいけばな界からはアウトロー的な扱いをされていましたので小原流とは名乗りましたが家元の名前は【小原流家元】《昇鶴軒亀寿》と記載されています。
華道協会の名簿にも小原光雲先生の名前はありますが冠が《池坊流》となっています。どうしても許せない目の上のたんこぶだったのだと思われます。そんな迫害を受けながらそれでも小原流を学ぶ会員の多くの温かい応援があったからこそ雲心先生、光雲先生は耐えてこられたのだと思います。三世豊雲先生の時にはかなり立場は確立されていました。
先人の苦悩を少し知ってもらうためにここに紹介しました。